シリーズその③ 「経営者に考えて欲しい「公」と「私」」 第1話 「概論」
- ritsu_dragon

- 2024年7月2日
- 読了時間: 1分
読者の皆さん、こんにちは。
株式会社ユナイテッドの藤田です。
こちらのブログでは、私が公認会計士及び経営者として経験した事例をもとに、日本の企業をもう一度輝かせるためのさまざまな考察や提案を配信していこうと考えています。
シリーズその①では、課題解決の入り口として、壁打ちコンサルについてご紹介しました。
シリーズその②では、「人材開発」を取り上げ、カウンセリングについてご紹介しました。
そしてシリーズその③では、企業経営において私がとても大事にしている「公」と「私」について解説したいと思います。
まず第1話はなぜ「公」と「私」が大切なのか、概論についてお伝えします。
「公」と「私」の範囲について
まずは、言葉の定義について明確にしたいと思います。私が言うところの「公」とは、国家、社会はもちろんのこと、仲間、自然環境、会社や学校などの組織体を広く含む概念で、いわば「個人の勝手が許されない複数人の集合体」を指します。
例えば英国では、私立学校のことをパブリックスクールと言いますが、これはもともと貴族が自分の子弟を教育するためにお金を出し合って設立した学校で、日本の国公立学校とは意味が違うそうです。私的なお金を「出し合った」ことが「パブリック=公」であり、そこから先は私的な思惑ではなく公的なルールで運営される、これこそが「公」の概念なのです。
なぜ「公」が大切なのか
なぜ私が「公」の概念を大切にしているかと言えば、社会において「公」がきちんと機能する時代こそが、最も幸福で繁栄していたと歴史が証明しているからです。これは会社経営でも同じで、会社に対する従業員の貢献意欲が高いと、その会社は繫栄しますし、逆に自分勝手で個人主義的な従業員が多いと、その会社は衰退します。さらに言えば経営者も同じで、「ワシの会社だからワシが好きにやる」という考え方では、いくらオーナー社長でも従業員の心は離れてその会社は衰退します。会社(公)とワシ(私)は、別なのです。
先日の時事ネタでご紹介したSDGsも、その考え方の根底には「公」があります。地球という大きな「公」があって、それが持続的に発展するよう考えられた目標こそが、SDGsなのです。
誰にでも「公」がある
人間という生き物は、他の人間と社会を形成することで、高度な文明を手に入れることができました。1人では成しえないことを、複数人で協力したり、分担したり、競争したりすることで、全体のレベルを上げてきたのです。複数人が集まれば、そこには「公」の意識が生まれます。法律が整備されていない時代であっても、オキテとか習わしなどの形で、協力して物事を達成するための共通ルールがありました。そうやって社会が高度化し、複雑化し、高い知性が身につくと、今度は自分らしさや個性といった「私」を意識するようになります。
山の中で自給自足生活をするなら別ですが、人間はどんなに孤独であっても社会から離れることはできません。1人暮らしで誰とも交友がない人でも、アパートを借りる時は不動産屋や大家さんと接点を持ちますし、スーパーに買い物に行けば、日本の生産システムと物流システムのおかげで店頭に並んだ品物を買うのです。つまり人間は誰にでも何らかの「公」があり、その関わりの中で「私」と向き合っていると言えます。「公」と「私」は、お互いに密接な関連を持ちながら適度なバランスを取り合う関係なのです。
「私」の暴走
ところが最近は、「私」の方が暴走して、「公」とのバランスを失う事例が見られるようになりました。典型的な事例が、モンスターペアレントです。自分の子供への過剰な愛情が暴走し、すべての責任を学校に押し付け、自己中心的かつ理不尽な要求を繰り返す親のことです。学校に乗り込んで苦情を言い、市会議員を動かし、教育委員会に陳情して、教師への懲罰や更迭まで求めるのは、完全にバランスを失っており異常です。そもそも子供の教育には学校教育と家庭教育があり、家庭生活では親が責任を持って教育しなければならないのに、そこをすべて棚上げにしています。このような親に育てられた子供に、健全な「公」の意識が身につくとはとても思えません。
この他にも、耳を疑うような事例はたくさんあります。小中学校は義務教育だからと言って、給食代を払わない親がいるそうです。また、筋肉痛だとかゴキブリが出たなど、取るに足りない理由で救急車を呼ぶ人がいるそうです。こういう人たちは、何らかの理由で「公」の感覚が十分に育っておらず、社会のあり方を自分勝手に解釈し、その結果自分を正当化して「私」が暴走しているのです。どんな時代にも自分勝手で変わった人はいるのですが、最近特に目立つのはそのような人が増えているからではないかと危惧しています。
社会への適合は、初等教育が大事
最近の学校教育で、倫理観や社会常識はどのように教えているのでしょうか。恐らく、内容はそんなに変わっていないはずですが、環境が変わっていると思います。
私が幼少の時は、「嘘をついてはいけない」「人を差別してはいけない」「人を傷つけてはいけない」など、道徳的な教育を学校でも家でも受けてきました。その一方で大らかなところもあり、実際には子供同士で些細ないじめもありましたし、気に入らない友達とは殴り合いの喧嘩もしました。もちろんそれが発覚した時には親や教師から(鉄拳)制裁を受け、やってはいけないのだと子供ごころに腹落ちするのです。
今の子供たちは、情報が溢れすぎて善悪の整理がついていないように思います。道徳的な教育は受けていても、氾濫する情報の中では優先順位が低いのだと思います。さらに、いじめや喧嘩は発覚すれば大ごとになるので陰湿かつ隠ぺい化され、発覚が遅れて正しく大人に怒ってもらう機会を逸しているのではないでしょうか。
私は、子供のいじめや喧嘩を撲滅することはできないと考えています。子供は未熟で、感情的で、残酷な生き物です。刹那的な衝突をゼロにするのは、どだい無理な話です。ワクチン接種と同じで、軽く感染(いじめや喧嘩)させてやって、早期発見して治療(鉄拳はダメですが)するのが一番です。そうやって実感を伴った経験を重ねることで、子供に正しい倫理観や社会常識が備わり、それが「公」の感覚を育てるのだと思います。
コメント